Category: 月刊私塾界本誌

利他の心で志を育め 目指すは一大教育コミュニティ|疾風の如く|2016年12月号

寺に生まれたことが厭だった。
そして教員一家を飛び出し、
自分だけがビジネス界を志した。
しかし、運命は皮肉なものだ。
ビジネスを学べば学ぶほど、
生き方を知れば知るほど、
ここへ還ってくる自分がいた。

愛知県
個別志導のサクセス

塾長 近藤 成人さん

ひとことで言い表せない異色の塾

いわゆる「普通の塾」とは何かが違う。FCからスタートしたものの、昨年よりブランドを一新してオリジナル化。学習指導は自立型を中心とし、時間割が存在しない。「学び放題」を標榜し、何度通っても定額料金。宿題も出さない。すべてをここで完結させるシステムで、他塾に通いながら、不明点を質問するためにここへ通塾する生徒もいるほどだ。
 さらに、幼児教育~大学受験、英会話・速読・習字・そろばんまでカバーし、今後は体育コンテンツまで視野に入れているものの、一般的に塾の生命線ともいえる中学生が最も少ないという。それでも生徒数は4校舎でのべ650名を数え、地域にその存在感を放っている。
 なぜ、こんな塾が生まれたのか。塾長の近藤成人(51)本人も「どんな塾か、なぜそうするのかと聞かれても、ひとことふたことでは説明しにくいです。まあ確かに、かなり異色の塾だとは思います」と笑う。しかし、その根底にはやはり独自の想いと、すべてをここに帰結させる大きな夢があった。

寺、教員一家…… その出自にことごとく反発

サクセスイングリッシュクラブ』では、ネイティブとのダブルティーチング制を敷く

近藤は、寺の息子として生まれ育った。これといった理由があったわけではないが、生理的にそれが厭で仕方なく、大学で東京に出た。
 さらに、両親・祖父母、そして妹までもが教育学部を出て公立校の教員を務めるという教育一家だったが、近藤だけが違っていた。教職課程は修めたもののビジネスの世界に興味を持ち、大学院卒業後は業界誌の記者に。
 記者とはいっても、営業から集金、取材と執筆、その後の校正まですべて自分でこなすという激務の日々。今では笑い話だが、生まれて初めて乗った飛行機がヨーロッパの非英語圏への単独海外出張だったという逸話まである。言葉もマナーも分からない、電車の乗り方さえも知らない海外で、しかもビジネス目的というハードな環境だったが、持ち前の行動力でそれを乗り切った。当時出会った現地の人たちは、塾経営者となった今でも家族ぐるみの付き合いだ。
 そんな経験が近藤の世界観を広げたのかもしれない。やがて「自分で時間をコントロールできる働き方・生き方をしたい」と、独立開業への志を抱くようになった。しかし「これ!」といったものがない。当初は自己啓発やネットワークビジネスの勉強もしたが、得るものは少なく、代わりに友人を失うだけだった。
 当時を振り返り、自嘲ぎみに近藤は言う。「自分のことしか考えてなかったんですよ」。そんな近藤が出逢ったのが、妻が運営していた塾と、私教育の世界である。奇しくも、近藤もまた家族と同じ世界へ還ってくることとなったのだ。

ビジネスを学べば学ぶほど、原点に還っていく

恒例の『そろばん選手権』。教科学習以外のコンテンツが豊富なのもサクセスの特徴だ

もともとビジネス志向の強かった近藤、塾経営に対してもそうだったが、次第に「教育」そのものにも熱い想いを抱くようになる。夢を語り、それを実現に導くタフな日本人を育てたい―― 自塾に個別「志」導と名付けたのもそんな理念からだ。
 そう思えるようになったのは、ドラッカーやアドラー心理学を学んだことが影響している。彼らのように社会で成功し、広く認められている概念・思想の根底には、共通して仏教的な利他の精神が息づいていることに気づいたのだ。ビジネスでの自己実現を目指せば目指すほど、他者への貢献を大切に。運命の糸というと大げさだろうか、あれほど避けていた「寺」という存在や思想に紐づけられていったのである。
 幼児から高校生まで幅広く受け容れているのは、その貢献意識から自塾をひとつの教育コミュニティと捉えているからだ。今後はシニアまでをもこの輪に引き込み、彼らの生きる知恵や哲学を還元したいと語る近藤。「この縁を連綿とつないで、20年後、30年後には、子供たちが教える側に回っているサイクルを完成させたい。それまでは死ねない」と笑った。個別「志」導の志は高い。(敬称略)

近藤 成人 SHIGETO KONDOH

塾長 近藤 成人さん

1965年生まれ、愛知県出身。石材業界の専門誌記者を経て、塾の世界へ。父は住職で、家族全員が教員という家庭に育つ。当初はそれを避けていたが、持ち前の強い自己実現志向とビジネスマインドを追求すればするほど、その出自という原点に還っていった。自塾を単なる学習塾の枠でとらえず、幼児からシニアまで、すべてをつなぐ学習コミュニティにするのが夢。
WEBサイト http://www.success-okazaki.jp/

学習支援塾ビーンズ(東京都)未来を自らの手でデザインする 〝学び治し〟の種|疾風の如く|2016年11月号

これだけ時代が変わっても、
なぜ教育現場は変わらないのか。
なぜ彼らは「道を外れた」のか。
学校が嫌い。勉強が嫌い。
自分の夢も見つからない。
自分もそうだったからこそ、
分かってあげられることがある。

東京都
学習支援塾ビーンズ

代表 塚﨑 康弘さん

早稲田に入ればすべてうまくいく

塚﨑康弘は、高校が大嫌いだった。一応は進学校と呼ばれるような学校だったが、先生は生徒を殴って勉強させるタイプ。生徒同士もどこかぎすぎすしていた。
「空気が読めないタイプだったんです」と自嘲する塚﨑。「みんなで頑張って大学に行こうぜ!」と周囲を鼓舞したが、そういう一直線な情熱は嘲笑されがちな年頃だ。「何を一人で熱くなっているのか」と、下駄箱を壊されるなどの嫌がらせも受けた。とにかく、学校へ行くのが嫌で嫌で仕方なかったという。
 しかし、高校最後の文化祭は大きな転機となる。件の暴力教師は「うどんの模擬店をやれ」と言ってきたが、それに反発。得意の「空気の読めなさ」を発揮して自ら脚本を書き、青春群像を描いた創作劇を行ったところ、感涙する者まで出るほどの大反響を呼んだ。斜に構えていたクラスメイトたちも次第に感化され、夢を抱いて頑張るようになる。それは今でも「伝説」だ。
 あるとき誰かが、教室に東京の地図を貼った。「俺たちは勉強して、東京の大学に行くんだ!」、そんな空気のなか、塚﨑も早稲田を目指す。早稲田に入ればすべてうまくいく、きっと幸せになれる、そう思っていた。

燃え尽き症候群

自分の未来を想像させる「夢・目標を書き出すワーク」

しかし、その反動が来た。無事、早稲田に合格できたものの、典型的な燃え尽き症候群にかかり、あっという間に不登校に。自己嫌悪にも陥り、布団を被って部屋に引きこもる日々が続いたという。
 ただ、捨てる神あれば拾う神あり。ずっと私淑していた社会学者に会うことができ、その薫陶を受けた。高校、大学と生きづらさを抱えて過ごしてきたが、それは決して自分だけではないことを知る。再び大学に行くようになり、そこでの学びでよりその思いを強め、次第に自分に何ができるのか考えるようになった。
 就職後に体調を崩して帰郷するが、そこで始めた家庭教師の仕事が、塚﨑の心にさらに火をつけることとなる。生徒たちは、「このままでは(受験に)間に合わない」「学校や塾などでの集団教育になじめない」「不登校」など、みな「何か」を抱えていた。

もう一度、東京で勝負したい

「意識の優先順位を探るワーク」。悩みを抱える生徒に、自分の価値観の源泉を見つけさせる

しかし、そういう子ほど光る個性を持っていることも多い。そうした個性を押しつぶされて来たのだ。ある生徒は「早稲田に行きたい」と言ったところ、学校の先生に「お前なんかが行けるわけない」と全否定されたという。ある教育懇談の場では、「(問題のある子は)ビシバシやってやればいんだよ!」と雑に言い放つ先生もいたほどだ。
 同時にジレンマにも苛まれていた。せめて自分くらいは、もっと生きる意味や学ぶ意味を伝えてやりたかったが、家庭教師として「(受験に)間に合わない」と言われている子を前に、背に腹は代えられない状態だった。その豊かな個性を認められながら、虚ろな目で〝勉強させられる〟彼らを見るにつけ、限界を感じていた。
 そのやるせなさは義憤にまで高まり、一念発起。「もう一度、東京で勝負してみよう!」。そうして生まれたのが、不登校や勉強嫌いな生徒のための『学習支援塾ビーンズ』だ。
 しかし、塚﨑は強調する。「うちはフリースクールじゃないんです」。何をしていても許される場所ではなく、あくまで復学・進学という成果を見据えて子供らの社会復帰を目指す「塾」である。
 そのためにも、まず「講師が腹を切る」ことが大事だ、と塚﨑。大人たちも初対面から自らのバックグラウンドや過去をさらけ出して生徒と接するという。『学び〝治し〟の授業』と銘打ち、心の不安や不満を整理しながら彼らの自尊心を回復し、キャリア教育やワークショップを絡めつつ自律心を育て、学習指導を行っていくのだ。その活動は着実に広がり、最近はHPを見て生徒自ら入塾を申し込んでくる例も多いという。
 今後は公教育との連携も含めて活動を広げたいと語る塚﨑。彼のまいた種(ビーンズ)は、いま、空に向かって伸び続けている。(敬称略)
文/松見敬彦

塚﨑 康弘 YASUHIRO TSUKAZAKI

塚﨑 康弘さん

居場所のなかった高校時代を経て、大学でも学ぶ意味を見いだせず不登校に。同時に、そうした自分と同じような生きづらさを抱える子供たちを救えない教育現場に義憤を抱き、『ビーンズ』を設立。「普通」であることを押し付けない教育を大切に、心のケアからキャリア・自律・進学復学支援までワンストップで行う。1985年生まれ、大分県出身。

●WEBサイト
https://study-support-beans.com/

東京都 株式会社メイツ(進学塾メイツ/個別指導塾WAYS)理想の最適化学習を目指して いま、『教育2・0へ』|疾風の如く|2016年9月号

塾が塾として機能していない。
そんな状態に憤りを感じた。
最高の授業を、最適化された状態で。
教育×ICTに見出した、
新しい教育のあり方へ。
『教育2・0』を創り出す
若者たちの挑戦。

株式会社メイツ(進学塾メイツ/個別指導塾WAYS)

代表取締役社長 遠藤 尚範さん

こんなことが許されるのか


「早稲田ならできるでしょ? じゃあ、あとはよろしく!」。教室長のその言葉に、当時早稲田大学の学生だった遠藤尚範は声を失った。
 アルバイトで勤めはじめた学習塾。教室長は、専門外の教科指導を遠藤に〝丸投げ〟したのだ。その教科に関する指導経験も、研修や指示も受けていない。異を唱える遠藤に、教室長が言い放ったのが、冒頭の言葉だった。
「なんていい加減な!」。その怒りは、決して「教えてもらってないからできません」といったような、イマドキの甘え発想からではない。決して安くない月謝を貰っておきながら、教える技術も、指導者を育てる技術もない。プロ意識というにはほど遠いその塾の対応にガッカリしたのだ。
 現在の業界はずいぶんと改善も進んでいるが、当時はまだ労務上の問題も抱えていた。学生講師にそれだけの負担を強いながら、授業準備だ指導報告だと早出・残業は当たり前、にもかかわらず賃金は支払われない。「こんなことが許されるのか。塾の教育はもっと善くできるはず。俺がどうにかしなくちゃ。理想の塾を創るんだ!」、そんな義憤が遠藤を突き動かす。教材や教育に興味のあった友人・伊藤史弥ら仲間を集めて、いわゆる学生起業家として自分たちの塾を創った。それがメイツのはじまりだ。

また辞めるの?

他塾にも提供をはじめた学習塾管理アプリ『reco』。タブレット1台から導入できる。

もともと、起業家マインドは強かった遠藤。シナリオライターを生業としていた父の影響で、サラリーマンという生き方が「ピンと来なかった」という。「敷かれたレールの上を歩くのではなく、自分でレールを敷きたい。そんな生き方がしたいな」。すでに一六歳の頃にはそう考えていたという。
 やがて起業家を目指し、早稲田の理工学部に進んだが、実験に次ぐ実験であまりにも忙しい学生生活。「これでは起業なんてとてもできないぞ……」、そんな焦りを感じ、三ヶ月で中退。再度受験勉強に挑み、同じ早稲田の商学部に入り直したという変わり種でもある。
 そんなときに出くわしたのが、塾への怒りだ。起業することは決めていたが、なにで起業するかまでは決めていなかった遠藤。この〝事件〟をきっかけに、一気に塾での起業へと心が動く。そして塾を開くために、せっかく入り直した商学部も辞めた。両親は「また辞めるの?」と、半ばあきれ顔で苦笑いしたという。遠藤の性格をよく分かっていたのだろう。

次世代教育『教育2・0』の概念

生徒達はタブレットを中心に学習する。出題や答え合わせなど、紙ベースや手作業で行っていた作業が一気に短縮された。

意気込んではじめた学習塾運営だったが、開業二年を迎えるころ、次第に行き詰まりを感じるようになる。「最高の授業を提供する」という理想にこだわるため、ほぼ一人で三〇人ほどの生徒を個別指導するというフル稼働状態で、そこから先に進めなくなっていたのだ。
 そんなときに出会ったのが教育×ICT(情報通信技術)の概念。タブレットなどの登場に、高い可能性を感じた。そこで遠藤が目指したのが「最適化」である。それまで自分が一人で行ってきた指導を、ICTを使ってシステム化することを考えたのだ。クラウド上にすべての教育コンテンツを整え、例えば生徒の進捗や出欠管理、保護者との連携はもちろん、ビッグデータを蓄積・活用し、一人ひとり異なる演習のセレクト、採点もできる。その結果は再びデータ化され、テスト対策などにも応用される。すなわち塾とその教育、付随する業務のほぼ全体を網羅し、かつ個別に提供できる仕組みを創ったのだ。これにより、従来一対一~一対三で行っていた個別指導を、一対八ほどにまで引き上げても同様の指導成果を維持できるなど、かなりの効率化を実現した。さらに講師の勤務環境も改善できたという驚異的成果を上げている。
 遠藤は言う。「古来、千年前から教育のスタイルは変わっていない。無駄もまだまだ多い。これだけ世の中は進化し続けているのになぜ教育だけが変われない? 最高の学びを、すべて最適化された形で。それが、私たちが提唱する新しい教育のカタチ『教育2・0』です」。
 この「システム」ができれば、自分達がいなくなっても教育は次のステージを行けると語る遠藤。目指すは、自分たちがそのネオ・スタンダードの一里塚になることだ。次代の教育の礎となるのだ。(敬称略)
文/松見敬彦

遠藤 尚範 NAONORI ENDO

遠藤 尚範さん

1989年、東京・中野区生まれ。早稲田大学商学部中退。大学ではじめた塾講師のアルバイトで、ずさんな運営・指導体制への義憤を抱き、自ら塾で起業することを決意。「最高の授業を、生徒一人ひとりに最適化された状態で届ける」ことを理念に、志を共にする大学の仲間たちと起業。ICTを活用し、質の高い学びを効率的に実施するシステム『reco(レコ)』を開発。今年10月からは、同社のみならず、他塾への提供もはじめた。

●WEBサイト
株式会社メイツ 
進学塾メイツ 
個別指導塾WAYS 
学習塾管理アプリ『reco』 

たまみずき(東京都)ないなら自分で作ってしまえ|疾風の如く|2016年8月号

障がいを抱える二人の娘。
彼女らには、行く場所がなかった。
娘たちだけではない。
困っている、声なき声が
たくさん埋もれていた。
そうだ、行く場所がないなら、
俺がこの手で作ってやる。

たまみずき(東京都)

代表 櫻井 元さん

行き先のない、放課後の子どもたち

『レット症候群』という神経疾患がある。ほとんどの場合女児に発症するといわれており、自閉傾向とともに知能・言語・運動能力に遅れが見られる病気で、発達障害の一つとして分類されている。しかし、現代の医学ではこれといった治療法も見つかっておらず、対症療法的な対応しかできない。発症率は約一万五千人にひとりという難病だ。
櫻井元(四二)は、双子の女の子の父。名前は珠希(たまき)と瑞希(みずき)という。彼女らが抱えているのが、そんなレット症候群である。たくさんの愛情を注ぎこんで成長を見守ってきたが、その子育て、そして仕事との両立、苦労は想像するに余りある。中でも手を焼いたのは、娘たちが学校に通い始めてからのこと。障がい児向けの放課後デイサービスがないことだった。
現在はある程度環境も整ってきたものの、櫻井がそれを必要としたとき、救いの手を差し伸べる者や制度はほとんどない状況。近隣に一軒だけあったものの、すでに定員いっぱいで受け入れてもらえなかったのである。

自分で作ればいいじゃないか

バザーのチラシづくりも、子どもたちが協力。みんなで作り上げるイベントだ。

途方に暮れた櫻井だが、だまって指をくわえているわけにもいかない。「どこかに受け入れてくれる先はないか」「ないなら、どう対応すればいいのか」、あの手この手で情報を集めていった。そのとき、ふと“降りてきた”アイデアがあった。「というか、自分で作ればいいんじゃないか?」
調べれば調べるほど、絶対的ニーズはあるのに数が少ないことが分かってきた。自分のほかにも、困っている人はたくさんいる。事業モデルも調べてみたが、きちんと運営すれば、ビジネスとして間違いなく成立する。
もともと起業には興味のあった櫻井。まして愛する娘たちのためとあれば、もう動かない理由はない。二〇〇九年九月、障がい児向け放課後デイサービス施設『たまみずき』を立ち上げた。名前は、想いを込めて二人の娘『たまき』と『みずき』から取った。
開園当初は、こうしたサービスの社会的認知が低かったことから、営業にも力を入れた。スクールバスを追いかけて、その場でチラシを配って回ったこともある。しかしそこで聞かれる反応はどれも好意的で、「へえ~、いいじゃない!」という喜びの声が多数を占めた。やはり潜在ニーズは高かったのだ。自らが障がい児の父であるという立場から、その保護者ネットワークも手伝って、口コミでもどんどん評判が広まった。

その生涯を支える居場所を

もちろん、苦労がなかったわけではない。櫻井は語る。
「福祉の世界で働く人たちの多くは、その職務の特殊性から『営業』『営利』という発想があまりないんです。いくら福祉といえ、利用率を上げていかないと事業は継続できません。営業行為に力を割くよりサービスの質を上げるべきという声もありましたが、質を上げるのは当たり前のことで、その上に立って営業視点も持つことが大事です」。
その大切さをスタッフに浸透させるのには時間も手間もかかったし、中には理解しあえず辞めていく人もいたという。しかし、努力の甲斐あって事業は順調に回り、今も拡大中だ。デイサービスの事業所は五か所にまで増え、新しく始めたヘルパー派遣事業も二か所に拠点を広げている。
目下の目標に置いているのは、グループホーム設立だ。もともと娘たちのために立ち上げたこの事業、今度は高校卒業後の居場所も作ってあげたいと考えている。「彼女らのライフステージに合わせて、ずっとその生涯を支えていける体制を作りたいんです」と櫻井は語る。彼女らや彼女らと同じ困難さを抱える子どもたち、そしてその家族のためにも。(敬称略)
文/松見敬彦

櫻井 元 HAJIME SAKURAI

代表 櫻井 元さん

1973年生まれ、静岡県出身。大卒後、エンジニアとして活躍していたが、双子の娘に障がいが発覚。当時は、障がい児が放課後に通える施設が少なく、様々な情報を集めるうち「いっそ、自分で作ろう」と思い立った。社会の潜在ニーズは予想以上に高く、現在は事業所も増え、ヘルパー派遣にも事業を拡大。今後はグループホームの運営なども考えたいと熱く語る。

●WEBサイト
http://tamamizuki.com

探究堂(京都府)学びの楽しさを知る 「オモシロガリヤ」を育てて|疾風の如く|2016年7月号

何もないところから
飛び込んだ教育の世界。
思うこと、感じることを
思ったまま、感じたまま
素直に吸収・表現できるように。
探究から始まる
学びの楽しさを求めて。

探究堂(京都府)

代表 山田 洋文さん

ボランティアでもいいんです!

二〇一一年四月。震災後の混乱もまだ収まらない東京、オルタナティブスクールを運営するNPO法人にやってきた山田洋文(当時三五)は、その門を叩いた。聞けば、ここで教員として働きたいという。
 しかし、前職はシステムエンジニアで、教員としての資質は未知数だ。やる気は感じるが、いかんせん経験や専門性が足りていない。そもそも、採用の予定枠など設けていなかった。戸惑う採用担当者だったが、山田はこう言い切った。「ボランティアでもいいんです!」
 山田がそこまでの熱意を持てたのは、本業の傍らで携わっていた別の教育系NPOのサポート経験だ。熱いやりがいを感じていたものの、活動はあくまで学校の外部協力団体としての立場で、直接子供たちと触れ合えるのはせいぜい週に一回程度。本業だってある。やがて「もっとしっかり教育に携わりたい」という想いが抑えきれなくなり、引き留めも振り切って会社を辞めた。そして何のあてもない状況で、このオルタナティブスクールを訪ねたのだ。担当者もその熱意に押されたのか、まずは山田の言うとおり、ボランティア枠での参画を進めることになった。
 しかし、チャンスが訪れる。経験者や専門性を持つ人材用に確保していた採用枠に、どうも「これ!」という人材が来ない。悩む幹部職員らの会議の場で「山田さんはどうかな? 経験よりもやる気を買って」と推してくれた人がいたのだ。その結果、「夏まで働いてみてダメだったら、再びボランティアスタッフとして活動してもらう」という条件付き採用が決まったのだった。

探究学習を通じて
同調圧力の支配から抜け出す

商店街は「なぜ?」「どうして?」の宝庫だ

その後は持ち前の情熱を武器に、めきめきと頭角を発揮。蝉の声が聞こえるころになってもボランティアへの〝格下げ〟はなく、正規スタッフとして教壇に立ち続けた。
 そんな日々の中、山田の中に新しい情熱が芽生え始める。そのスクールでは教科学習も教えていたが、探究学習にも力を入れていた。正解のない問いや知的好奇心への刺激を中心に、ワークなどもふんだんに盛り込んでいたのだ。
 どうしても、一般的な学校という社会では同調圧力が働きがちだ。人と違う答えを恐れ、自分が思うことや意見を素直に出せる機会に欠ける。しかしそのスクールにおける探究学習の場では、子供たちが「自分の意見は否定されない」ということを知っていた。目が輝いていた。そこに感銘を受けていた山田だったが、その一方で問題意識も抱いた。
 こうしたスクールに通える生徒は、比較的裕福な家庭の子だ。保護者も教育に対する意識や理解が高い。それはそれで大事なことだが、もっと「普通の」子たちも通える場を提供したいと思い始めたのだ。

「オモシロガリヤ」を育てたい

枯れた水汲みポンプから水が出ないのはなぜ? そんな疑問も、すべて学びのきっかけとなる

やがて四年の歳月がたち、意を決した山田。故郷に帰り、自らの手で教育活動を興すことに決めた。最初はスクールの形式も考えたが、人手や予算の問題もある。何より、誰でも通えるようにしたいという想いは譲れない。そこで思いついたのが、塾というスタンスだったのだ。
『探究堂』と名付けられたその学び舎は、かつての経験を活かしながら様々な探究学習の場を設けている。コンセプトは『オモシロガリヤを育てる』だ。
 例えば商店街を練り歩きながら、興味を持ったものを調べてみる、といった学習がある。商店街よりも大型SCに慣れ切った現代の子供たちだけに、その視点も斬新で「なぜ花屋が二軒もあるの?」「露店は商店街のお店と言っていい?」「なぜこの店舗レイアウトなの?」といった疑問が次々出てくる。そうして気になったことには、自分なりに仮説を立てて、実際に店主へ取材し、探究を深める。最終的にはシートにまとめて保護者らの前でプレゼンを行うのだが、いつも子供たちはいきいきしているそうだ。
 今後は哲学講座なども力を入れる予定で、とにかく自立して自分で考える知的情緒豊かな子を育てるのが目標だ。
 目を細めながら山田は言う。「この塾に来ているときだけが面白い・楽しいというんじゃダメで。ここを機に、学校、ひいては学ぶことそのものが楽しいということを分からせてあげたいんです」。(敬称略)
文/松見敬彦

山田 洋文 HIROHUMI YAMADA

代表 山田 洋文さん

1975年生まれ、京都府出身。神戸大学卒。大卒後はシステムエンジニアに従事するが、その傍らで携わった教育系NPOの活動から教育への想いに目覚める。退職後はオルタナティブスクールで4年間教員を務めた。そこでの経験をもとに2015年より独立、郷里の京都へ戻り「学びを面白がる心を育てる」をコンセプトとして『探究堂』を開塾。

●WEBサイト
http://tanqdo.jp/

あずさ塾(京都府)京の町屋に行き交う 「ただいま」と「おかえり」|疾風の如く|2016年5月号

単なる学習塾とも違う。
学童の預かり保育とも違う。
まるで我が家のような空間。
それは「指導」というより、
「子育て」そのものかもしれない。
学童×学習塾が切り拓く、
あたらしい教育のかたち。

あずさ塾(京都府)

代表 飛田 梓さん

家に帰ってくるような塾

町屋を利用した趣きあふれる外観

「ただいまー」「おかえりー」。温かい日常のやりとりが、京都の町屋に響く。
しかしここは、子供たちの家ではない。まごうことなき「学習塾」である。学童保育と塾を融合させた、新しいスタイルの幼児塾『あずさ塾』だ。京町屋を利用したその教室は、おおよそ塾とは思えない、旧き良き京都の家族の風景をそこかしこに漂わせている。そして行き交うあいさつが、その家庭的雰囲気をさらに色濃くする。
あずさ塾のある地域は、京都の中でも比較的教育熱が高いエリアだ。中学受験はもとより、小学校のいわゆる〝お受験〟に挑む家庭も多い。そんな中で「我が子には幼い時期からきちんとした教育を受けさせたい。かといって、まだ年端も行かぬうちからお勉強の詰め込みばかりなのもちょっと……」という家庭から、大きな支持を受けているのだ。

「間に合わない」子供たちの存在

そんな温かな塾を開いたわけを、代表の飛田梓はこう語る。
「開業時は中学受験生をメインに教えていたんです。でもそこに、ある種のジレンマを感じて。もっと低年齢の、子供の根幹や土台作りとなる時期から関わってあげたいと思うようになったのがきっかけですね」(※別教室で中学受験指導は継続中)。
教育の世界を目指したのは、父が塾を始めたことによる。父は会社員として日々を送りながらも、想いあり、副業として開塾。それが、飛田がちょうど大学に入学したころだ。半ば自然発生的に塾を手伝うようになり、次第に教育の面白さに目覚めた。ボランティアとして、小中学校の受験指導や放課後指導にも赴くことも多かったという。
やがて周りが就活を始める頃になっても、あまりそんな気になれず、気持ちは自身も塾をやる方向に動いていた。市の主催する起業家塾に参加して学び、やがて自分の塾を開いたのが『あずさ塾』の始まりだ。
しかし開業したはいいものの、大きな歯がゆさが彼女を襲う。中学受験生を対象に指導していたが、「間に合わない」子たちに出会うことが増えたのだ。幼い時にきちんと思考力や主体性を身につけてこなかったために、どうしても勉強に対して受け身になり、越えられない壁にぶつかってしまう。飛田も生徒ももちろん全力を尽くしたが、今までの〝ツケ〟を返上するのは、物理的・時間的に限界があった。情熱や精神論だけではどうしようもない現実があったのだ。
「もっと幼いころから、自学自習できるようにしてあげていたら……」「生活習慣から深くアプローチできていたら……」。そんな、慙愧とも使命感ともいえるような思いが、学童×学習塾をメインとした『あずさ塾・御所南教室』オープンにつながっていったのである。

安心して中学受験に挑戦できる
家庭的な温かい塾を


教室内は、畳に和風机と、寺子屋を思わせる雰囲気だ

その想いを胸に、女性起業家を支援するビジネスプランコンテストに応募した飛田。ここで入賞すれば、事業資金も援助してもらえる。エントリーテーマは「ワーキングマザーを支援する、長時間預かり型の学習塾」だ。
単なる幼児教育塾にしなかったのは、『小一の壁』問題などに散見される、共働き家庭における教育・子育ての難しさに問題意識を持ったからだ。とにかく、家庭のような温かさの中で、子供たちに必要な力を育んであげたかった。だからこそ、町屋であることに意味があったし、「学童×学習塾」というスタイルにこだわったのである。その姿勢と着眼点が認められ、プランは見事に特別賞を受賞した。
「指導ではなく子育てをしているイメージです」(飛田)と言うように、開塾後も気持ちはいつも生徒と保護者に寄り添っている。「せっかく学童のスタイルを取っているのだから、美術やお習字などの習い事ともコラボしたいですし、共働き家庭でも安心して中学受験にチャレンジできるような体制を作りたいです」と飛田。あの日果たせなかった悔しさは、いま着実に光が当たり始めている。(敬称略)
文/松見敬彦

飛田 梓 AZUSA HIDA

京都市生まれ、京都市育ち。父の設立した学習塾を手伝う中で教育に関心を抱き、自らも塾を設立。中学受験をメインに指導するも、その土台となる幼少期の教育の重要性に目覚め、別教室として「学童×学習塾」スタイルの教室を開塾した。受け身な姿勢をなくし、自学自習できる子供を育てることに使命感を燃やす。

●WEBサイト
http://www.azusajyuku.net/

特定非営利活動法人 鴻鵠塾(東京都)生きたい人生を生きよう 広がれ、羽ばたけ、鴻鵠の翼|疾風の如く|2016年4月号

自分が歩んできた「当たり前」の世界。
それは、社会全体から見れば
あまりにもちっぽけな箱庭だった。
その進路は、自らの心に従った結論かい?
情報に踊らされる若者たちに
「人生を自ら選択する」喜びを。
届け、鴻鵠の志。

鴻鵠塾(東京都)

代表理事 上田 圭祐さん

鴻鵠の視点を持て

代表理事 上田 圭祐さん

燕雀安んぞ、鴻鵠の志を知らんや。小さく狭い視点(人物)では、大いなる大志を理解できるはずがないという意味の故事成語だ。
対して、現代の日本社会に生きる若者はどうだ。自らの人生の岐路となるはずの進学や就職先の選択でさえ、何が正しいか分からず彷徨っている。自らの魂の声に耳を傾けることを忘れ、他人や社会が決めた価値観を唯一の「幸福」あるいは「勝利」だと信じ込まされ、枠の中に自分をはめ込んでいく…… そんな現状を憂い、「鴻鵠」たる視点を若者に芽生えさせるべく、東奔西走する男がいる。上田圭祐(三七)だ。
上田の教育活動は、NPO法人として、高校生・大学生のキャリア形成などを支援すること。いわゆる学習塾のカテゴリではない。しかしその実践は、まさしく人を育てるという、本質的な「教育」そのものといえるだろう。
自身は、筑波大附属の小・中・高から中央大の理工学部、日本最大級の産業技術研究機関・産総研を経てIBM社に入社するという、まさにエリート街道を歩んできた人間だ。しかし、人もうらやむようなその経歴の裏には、多くの挫折や苦しみを孕んでいた。それが、上田の教育の原点だったのかもしれない。

あまりに狭すぎた世界の中で

多くの社会人との接点やワークなどを通じて学生の自己理解を深める

上田が筑波大附属の畑を歩んできたのは、親の意思だ。さすがに小さな子供に進路の自己判断を迫るのは無理があるが、上田にとって「世界」とは、その学校社会がすべてだったことは事実である。
しかし、高校から入学してきた同級生が、その狭い社会の壁を壊してくれた。彼はダンスが大好きな行動派で、その賛否は別としても、中学生の頃から六本木のクラブに出入りしていたようなタイプだ。もちろん、これまでの上田の世界には、まったく存在しなかった遊び方である。
ある日、彼は上田をクラブに誘ってくれた。そこで上田が見たのは、多くの仲間に囲まれ、学校では見たことのないような輝きを見せる彼の姿だった。「今までの俺の人生、なんだったんだ……」そう思うのも無理はなかっただろう。
次の転機は、浪人経験だ。医師になりたくて国立大の医学部を目指していたが、二浪した末に挫折。予備校に通っているときも、自分が知らなかった生き方や価値観を持っているヤツらを、たくさん見てきた。
もちろん、これだけ努力しても合格できないという事実も、カルチャーショックと屈辱感に拍車をかける。結局、中央大に進んだのも、決して自ら望んだ道ではなかった。医学部への未練を残しながら、やりたいことも見つからない日々だった。
しかし、仲間もたくさんでき、いわゆる楽しい学生生活は謳歌できたという。そうした人とのコミュニケーションが、次第に上田の中に「やりたいこと」を萌芽させていった。「人と接すること」に喜びを感じていたのだ。
産総研も、最初は勧められるがままに入っただけだったが、かえって「自分は研究より人と接するほうが好き」「それを活かした企業人になりたい」という想いを強くさせるのに奏功した。
上田の中の「鴻鵠の視点」は、着実に開き始めていたのだ。

就活を通じて、人生を掘り起こす

6次産業化や祭の創出など、学生の力を活かした地方創生事業も行う

IBM入社後は、水を得た魚のようにその本領を発揮。主に営業職として華やかな実績を次々に残す一方で、友人・知人、あるいは本人から、悩める就活生の力になって欲しい、という相談が舞い込むように。これが、鴻鵠塾の原点である。
便宜上、就活塾としてテクニック指導もするが、根底にあるのはあくまで「なぜ社会に出るのか」「出て何をしたいのか」「それができる仕事は、会社は何か」という、『生き方』を深く問う作業だ。やがて上田の下には多くの学生が集まるようになり、送り出した内定者は八年間でのべ七〇〇人を超えた。
最近では高校生向けのキャリア教育や、培った学生・社会人の人脈を活かした地方創生活動にも力を入れている。鴻鵠の翼は、着実にその飛行範囲を広げ続けている。(敬称略)
文/松見敬彦

上田 圭祐 KEISUKE UEDA

1978年生まれ、東京都出身。IBMに入社後、大学生の就活支援を通じたキャリア教育活動を始める。やがて希望者が続出するようになったことで、持ち前の起業家精神に火がつき、活動をNPO法人化。現在は都立校のキャリア教育や地域活性事業にも活動領域を広げる。今後は、学習塾や私立高校にも活動を広げたいと語る。

●WEBサイト
http://koukokujyuku.org/

パイオニア ランゲッジスクール(神奈川県)英会話という「窓」を開けて 真のコミュニケーション能力を|疾風の如く|2016年3月号

優等生だった自分。
それに疑問を抱いたとき、
目の前の「窓」は開かれた。
学力という、唯一にして
画一的な価値観に踊らされる
親子を助けたい。
英会話には、そんな力がある。

パイオニア ランゲッジスクール(神奈川県)

マネージャー 中村 由香里さん

レールを外れてみたかった

マネージャー 中村 由香里さん

飛行機が空に残した一筋の白い雲は、彼女の夢が描いた軌跡そのものだ――三年生になったとき、その女子高生は単身渡米した。これから、一年間の留学生活の幕開けである。
 ただ、留学とはいっても、高校が用意した交換プログラムの類ではない。渡米も、滞在先も通う学校も、すべて自ら(と家族)が独力で判断・手配したものだ。「ずっと敷かれたレールの上を歩んできて、そこを外れてみたかったんだと思います」。当時を回顧して、当人・中村由香里はそう笑う。
 地元の有名私立校に通い、勉強が得意で生徒会長も務める「ザ・優等生」だった中村。目指している大学もあったが、ふと感じた。「これって、本当に私がやりたいことなのかな……」。
 テストで良い点を取ることだけが、唯一の存在証明であり人間的価値。志望校に挙げた大学も、特にそこへ行きたかったわけではなく、立場上そのあたりが妥当だろうと空気を読んだだけだ。
 そう、彼女は自分の人生ではなく、日本社会が望む理想的高校生の人生を生きようとしていた。演じている自分に気づいてしまったのだ。

母の背中を追って

母で校長の祐子さん。中村さん共々、熱い教育理念の持ち主だ

そこに気づける感性を彼女に授けたのは、間違いなく母だ。約三五年前、母の祐子は、静岡・富士宮で小さな英会話スクールを開いた。現在、中村がマネージャーを務める『パイオニアランゲッジスクール』の前身だ。とはいえ、当時はただでさえ英会話スクールなど珍しかった時代。ましてや静岡の片田舎となれば尚更である(現在は神奈川へ移転)。
 しかも母自身、英語に堪能だったわけではないという。彼女は大学で心理学を学んだが、学会で外国の研究者と意思疎通すらできない自分たち日本人に、猛烈な危機感を抱いたのが始まりだ。それは単に語学力だけの問題ではなく、外国人とコンタクトを取ろうとする意思そのもの、最も原始的なコミュニケーション力の欠如と言っていい。「こんな状況は私たちで終わりにしたい。次の世代に、英会話力という新しい窓を創ってあげたい」。それが開校の理由だった。
 経営者であり、妻であり、親であり、同時に祖父の介護まで行いながら自分の情熱を次々と形にしていく母への憧れ……母は信念の人であり、明らかに自分の人生を生きていた。その有形無形のイズムは長い年月をかけて中村のなかに種を蒔き、やがて彼女が一八歳を迎えるころ一気に芽吹くこととなる。

決められた物差しの中で、さまよう親子たち

校長・スタッフのみなさんと。創業時はネイティブ講師を自宅に下宿させていたほどだという

 海を渡った中村に、自由の大地は次々と価値観のシャワーを浴びせてくれた。中でも驚いたのは教育哲学だ。
 個人主義のアメリカでは、不得意な科目があってもそれを「劣る」とは見なさず、個性だと考える。代わりに得意なことをとことん認め、伸ばす教育だ。また、いま学力がふるわない子でも、学びへの熱意や努力の過程が評価されれば大学へも進学でき、奨学金も得られる。子供の未来に賭け、評価し、投資する発想なのだ。
 対して日本は、得意を伸ばすよりも、苦手をなくして平均化することが是とされる。「今の」成績が悪ければ次の学びの門は決して開かれない。日本式教育の利点も理解できるが、子供の価値をはかる物差しが学力しかないのはどうなのか。さらに、親も子もそれが正しいと信じ込まされ、成績だ受験だと踊らされ、疲弊を重ねている。そんな思考停止的社会に恐怖すら感じた。彼らを救い出してあげたい、そうじゃないよと教えてあげたい……中村のなかに理念が生まれた瞬間だった。
 やがて米国の大学を卒業して帰国。大手塾などで働いたのち、母の教室へ。夢は大きく「日本人の開放」である。母は英会話力を「窓」と称したが、その気持ちは同じだ。英語を通じて世界に繋がれば、視野の裾野は無限に広がる。学力=人間的価値という一方通行の一本道を歩いてきた子供たちに、「どこにだって歩き出せるんだ」と気づかせてあげたい。それが中村の、『パイオニア』たる彼女の、教育フロンティアだ。(敬称略)

文/松見敬彦

中村 由香里 YUKARI NAKAMURA

静岡県出身。英会話スクールを経営する両親のもとで育ち、留学を経て日本の教育の画一性に疑問を抱く。大手の塾企業・通信事業企業に勤めたのち、両親が興した『パイオニアランゲッジスクール』入社。受験英語ではなく英会話というスタンスを貫き、単なる語学力としてのそれではない、総合的・人間的コミュニケーション力を伸ばすことに力を注ぐ。  

●WEBサイト
http://www.pls-edu.jp

スマイルアシスト(栃木県)塾と親が手を取り合って みんなで育てる、心の〝共育〟を|疾風の如く|2016年2月号

人とは少し違う道を歩いてきた。
だからこそ、見えることもある。
勉強だけできても人は育たない。
心を育てて、人を育てる――
元・キャリア自衛官が抱いた
教育の理想とその挑戦。

スマイルアシスト(栃木県)

塾長 黒木 久美子さん

女子大生は、キャリア自衛官へ

黒木 久美子さん

「えっ、本当にウチでいいの!?」。採用担当者は、立場も忘れてそう尋ねた。それも無理はないだろう。その就活生は、なんとキリスト教系女子大の学生。同窓生の多くが銀行員や保育士として就職するなか、ここ・防衛省の門を叩いていた。しかも、各都道府県でたった一人しか採用されないと言われる裁判所勤務の内定を蹴って。まさに異色中の異色と言っていいだろう。
もちろん、防衛省だってエリートコースだが、いわゆるキャリア自衛官の道だ。精神的・体力的にも厳しく、男社会。職責も特殊である。
しかし、本人に迷いはない。当時はPKO活動が話題になりはじめたころで、「人を助けて、しかもそれが仕事になるなんて素晴らしい」と思っていた。自分の信念にまっすぐで、自他共に認める負けず嫌い。黒木久美子とはそういう女性であり、だからこそいま、塾をやっている。

教育を思うからこそ、教育から離れよう

実はもともと、教育への関心は強かった黒木。大学では教育実習も経験、生徒から慕われる人気の先生だった。「ああ、先生の仕事っていいな」。素直に、そう思ったという。
しかし、だからこそ彼女は教員の道へ進むのをやめた。「たかだか二〇年そこそこしか生きていない小娘が『先生』なんて呼ばれ、こんな狭い経験と視野で子供に何を伝えられるのか」と、採用試験を目の前に踵を返した。「一度、一般社会で揉まれ、それでも先生になりたいと思えたら挑戦しよう」と考えたのだ。
防衛省では暗号部隊へ。「相当やられましたね」と彼女は笑うが、そこは、予想通り厳しい世界だった。自衛官にとって〝現場〟とは戦地であり、自分一人のミスで部隊が全滅することもある。ここで仲間を思いやり、大事にする価値観を徹底的に鍛えられた。同時に上官として「人を育てる」ことの楽しさも再認識していた。
その後は順調なキャリアパスを重ねながらやがて結婚し、娘も産まれたが、それが転機に。女性が子育てしながら自衛官を務めるのは職務上かなり難しく、駐屯地内に保育所機能を持たせる意見具申をするなど奔走したが、物理的な壁もあり難しかった。
結果、ここでも彼女らしさを発揮する。次のあてもないまま退省したのだ。当然、周りは全力で慰留した。「なぜ安定を捨てるのか」「このままいけば勝ち組なのに」と。しかし彼女にとって、家族をないがしろにして得る将来など、決して勝ち組とは呼べなかったのだ。

個性心理学を活かし『三位一体』の塾を

笑顔が印象的な黒木さんだが、生徒と向き合うときは真剣そのもの

退省後は、地元・福島の有名企業へ。しかしそこは完全な個人主義の会社で、人材を育てようとしない。「隣のデスクにいるのは、仲間ではなく敵」というありさまで、勉強だけできて一流企業に入ってもこれでは…… という思いを強くした。
それが反面教師になったのか、学生時代のあの想いが頭をもたげる。「やっぱり、教育をやりたい。人を育てる塾を創りたい!」。
そうして着々と起業準備を進めるさなかだった。〝あの日〟が訪れたのは。―― 3・11。自宅は半壊、原発の不安もあった。開業どころか、生活もままならない状況に意を決し、娘を連れ栃木へと移住、そこで晴れて塾を開いた。
これまでの経験から、胸にあった想いは一つ。「まずは子供の自尊心を育てたい」。だが当初は、それがなかなか理解してもらえない。保護者が求めるのは「とにかく成績さえ上がればいい」ばかりで、まずはここを変えねばならなかった。
そこで個性心理学を学び、その子の個性や才能に即して指導を使い分ける手法を取り入れた。さらに親をも巻き込み、親身に相談に乗りながら協力して子供らを育てる『三位一体』『親子共学』の教育も実践。実は親自身も、子育てに多くの悩みを抱えていたのだ。その取り組みはみるみる地域に浸透し、いまや押しも押されもせぬ人気塾だ。
「うちから世界に羽ばたく子を育てたいんです」(黒木)と理想は高い。自らが異色のキャリアを歩んできたからこそ、伝えられることがきっとある。(敬称略)文/松見敬彦

黒木 久美子 KUMIKO KUROKI

福島市出身。防衛省・民間企業を経て、震災後は栃木県小山市に移住。一度は福島での開業を諦めた学習塾を立ち上げ、「教育を通して世界中の子どもたちを笑顔にする」という志を基に、その子の個性を明らかにすることで才能を伸ばす教育を実践中。また、母子のストレス軽減・学習環境改善に取り組む「個育てマム」を主宰するほか、DAREDEMO HERO日本支部関東統括長として、フィリピンの貧困層の子供たちの教育支援、小山市の国際交流会おいふぁの理事も務める。

●WEBサイト
http://www.smile-assist.net/

WinStar個別ONE(兵庫県)塾に携わる者だからこそ、あえて。 目指したのは「塾のない社会」|疾風の如く|2016年1月号

どこを向いて仕事をしている?
 誰のため、何のために塾で働く?
 忘れてしまっていないか子供のための教育を自分が楽しみながら働くという当たり前のことを

WinStar個別ONE(兵庫県)

代表 北浦 壮さん

WinStar個別ONE 北浦 壮氏

塾は趣味でやりたい

戦火に散った戦場カメラマン・ロバート=キャパは言った。「私の一番の願いは、失業することだ」。世界に平和が訪れ、戦場カメラマンという仕事が必要ない社会の実現を願った言葉である。
 思えば、すべての仕事はそんな悲しい皮肉をはらんでいると言っていい。塾だってそうだ。子供たちの学力向上が塾の第一義だとすれば、塾を必要としない世の中にするのが、塾人が目指す最終目的地なのかもしれない。まあ、頭では理解しても、心からそう思うのはたやすくないが。
 しかし、北浦壮(三六)は違った。はばからずそれを口にする。「子供たちが塾なんて行かずに済むようするのが最終目標です」。同時に「塾は趣味でやりたい」とも言い切る。誤解を受けそうな言葉だが、もちろん塾という仕事を舐めているわけではない。そこにこそ、北浦が塾をやる理由、目指した理想があった。

心臓病の少年との出会い

いわゆる〝夜の街〟でアルバイトをしながら、二六歳まで司法浪人を続けたが挫折。それが周囲の笑い物になっているような気がして、いたたまれず故郷を逃げ出し、縁もゆかりもない地で大手進学塾に就職した。「僕は基本的に、逃げてばかりのダメ人間なんですよ」と笑うが、そんな自然体も彼の魅力だ。
 塾を選んだのは、かつて「教育で人は変わる」喜びを経験していたからだ。高一のころ、近所のとある小学生の家庭教師を頼まれたのだが、その子は心臓病を患っており、気も弱く、二〇歳まで生きられないとも言われていた。ふさぎこみがちな我が子を心配した母親が、「せめて話し相手に……」と北浦を引き合わせたのだ。
 勉強もそれなりに教えたが、くだらない日常のこと、女の子のこと、ちょっと悪い遊びのこと……まともな学校や塾なら大問題になりそうな話題もたくさん語りあった。それはお世辞にも上品な「教育」ではなかったが、血の通った真実がたくさんあった。「臭いものに蓋をしない」――それこそ北浦の教育であり、その姿勢は塾を開いた今も変わらない。やがて少年は奇跡的に回復し、明るく元気になったうえ社会復帰も遂げ、今でも友達のような存在だという。そこに北浦は「人を育てる」という教育の純粋な楽しさを見出したのだ。

売上を追い求めない塾を作りたい

しかし、最初に就職した塾は、いわゆる軍隊式で売り上げ至上主義。自身は常にトップクラスの成果を出してはいたものの、違和感をぬぐえなかった。後に転職した塾もそれは同じで、どこか社員たちが、生徒でなく会社のほうを向いて仕事をしているように感じたのだ。子供たちには「生きる力」だ、「夢を持て」だと言いながら、当の先生たちが仕事、ひいては人生を楽しんでいるようには到底見えなかった。
「この人たちは、誰のため、何のために塾で働いているんだ?」。そう思ったとき、独立するのは自明の理だったと言えよう。

夏のキャンプにて。その笑顔から、いかに子供たちと一体になって楽しんでいるかよく分かる

そこで、開業するに当たって重視したのは「自分も子供も」笑いあえる塾。営利に走らない塾。教育が売上追求の犠牲にならないよう、事業を多角展開し、利益の多くはそこで出そうと考えたのだ。北浦自身が塾を「楽しめる」こととは、自分の利益に惑わされず、純粋に子供たちの利益を追求できることであり、「塾は趣味でやりたい」という言葉の真意もここにある。
 だから、今でもチラシはほとんど打たないし、無理な入塾も迫らない。塾生の成績が上昇してきたら、平気で(もっとハイレベルな)他塾への転塾を勧める。不思議なもので、そうすればするほど生徒は増えたし、生徒たちの成績も上がった。塾生同士も結束が強く、小学生から浪人生まで、まるで家族のような関係性だという。個別指導塾では珍しいことだ。
「塾というより、教育を通じた地域サロンのような場にしたい」と北浦。もしかしたらそれは、彼の目指した「塾のない社会」の第一歩、あるいは進化した塾の形なのかもしれない。(敬称略)

文/松見敬彦

北浦 壮 TAKESHI KITAURA

1979年生まれ、大阪府出身。塾が過剰な営利主義に走ることを疑問視し、理想を求めて独立開業。「自分(講師や社員)が幸せでないのに、他人(生徒)を幸せにはできない」という理念のもと、塾の社会的地位向上を目指す。そのため、各教室長がプロとして独立した裁量権を持って教室運営するスタイルを取る。気さくな人柄で「僕みたいな人間でも、楽しいことを追求して生きていけるんだと子供らに伝えたい」と語る。
●WEBサイト
http://www.win-star.jp/
●ブログ
http://ameblo.jp/hoshitea/